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説経節 その3 『小栗判官』 後編  [折口信夫]

続きです。

遊行寺の御上人が蘇った小栗判官の
胸札を読むと素性がわかりました。

すると和歌山県の熊野本宮へ
土車に乗せられて運ばれることになりました。

3oguri.jpg

土車で運ばれる小栗判官

伊勢へ、熊野へと語る者たちが

「一引き引いては千僧供養
      二匹引いては万僧供養」

と唱えて餓鬼阿弥になった
小栗判官を運んでいきます。

箱根の山坂を越え
大井川を渡って美濃の国の
青墓(おうはか)の宿場につきました。


一方 照手姫のほうは
生家を追い出され
人質の手を経て
「常陸小萩」と名を変え
美濃の国の青墓の町の
万屋で水汲みの下女をしていました。

五日の暇をもらい
変わり果てた
ご本人だとはわからず
毒殺された小栗判官への
功徳と思って土車をひきます。

土車は444日目に熊野の峰につきました。
餓鬼阿弥は温泉のつぼ湯に
7日入ると六尺二分の元の
小栗判官の体に戻りました。

5oguritsuboyu.jpg
つぼ湯

そこで熊野本宮に参り
帰り道で青墓の照手姫に会い
共に常陸の国に戻って
82歳まで大往生したそうです。

6ogurikumano.jpg
熊野本宮

******************************************

説経節「小栗判官」は
「よみがえり」の物語。
折口信夫は「蘇生譚(そせいたん)」という
言葉を使い、生命再生産の途中の
「餓鬼」の姿をくわしく
盲僧や巫女に語らせています。

中世には仏罰を受け土車に乗せられて
引かれていく者の綱を引くことによって
「わが身のこの世での罪業を消してゆくことになる」
という信仰があったそうです。


4oguri.jpg
8月16日に行われる小栗判官のスライド講演の様子


参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
wikipedia
み熊野ねっと
熊野観光協会HP



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説経節 その3 『小栗判官』 前編  [折口信夫]

小栗判官は、
伝説上の人物であり、
日本の中世以降に
伝承されてきた物語です。

モデルとなった人物は
常陸国小栗御厨
(現在の茨城県筑西市)
にあった小栗城の城主
常陸小栗氏の小栗助重
といわれています。

茨城県筑西市では
毎年12月に小栗判官祭りが
行われています。

ogurihanngann.jpg

小栗判官祭りの様子

それでは物語を前編と後編にわけて
ご紹介させていただきます。

**********************************************

三条大納言の息子
有若は鞍馬毘沙門の申し子で
元気に育ち横笛の名手でした。

元服して母親の故郷に縁のある
常陸の小栗判官と名乗ります。

京都の深泥池(みぞろがいけ)の
畦で契った美女の本性が大蛇とわかり
都を追い出され、常陸の国へと
流されました。

1oguri.jpg
みぞろがいけに棲む大蛇の美しい姫と出会う小栗判官


相模の国の代官
横山家の照手姫が美しいと聞いて
小栗判官は早速恋文を出します。

照手姫もこの積極的な若者を
好ましく想いますが、
おさまらないのは
横山家の父親と五人の兄弟。

婿入りに来た小栗判官に
「人喰い馬」といわれる
荒馬をあてがいます。

馬にのった小栗判官は
八丁の萱野(かやの)を駆け巡った後
碁盤の上に馬の四足を揃えて
乗り上る見事さ。

2oguri.jpg
碁盤の上に足をそろえ乗りこなしてみせる小栗判官

兄弟は次の手を考え
宴会に招きます。
不老不死の酒と偽り、
毒酒をついだのです。
十人の家来はほどなく倒れ
小栗判官も腰の刀が抜けないほどに
毒が回り21歳で
一世の終わりを告げました。

冥土に落ちた小栗判官は
閻魔大王に裁かれます。
十人の家来は火葬、
大将格の小栗判官は
生前歴を胸札につけ
土葬となりました。

藤沢に葬られて三年後
塚が四方に破れて
娑婆の風が吹き込んできました。
すると小栗判官は
餓鬼の姿になって
よみがえったのです。

さて、一体
小栗判官は蘇って
何をするというのでしょうか。


明日に続く・・・


参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
wikipedia


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信太妻に見る安部清明出生の話 [折口信夫]

数年前陰陽師で話題になりました、
京都の清明神社の
ご祭神の安部清明。

seimeijinja.jpg
清明神社

「尊卑分脈」という14世紀の
室町時代にできた
家系を記した歴史書によると
安部清明は生まれ年は不明ですが
寛弘二(1005)年に85歳で
亡くなったことがわかっています。

abenoseimei.jpg

平安時代の藤原道長(966~1027)や
紫式部と同時代の実在の人物です。

前回紹介しました
信太妻の説経節の中で
清明は、狐の子であると
語られています。
さてそれはなぜなのか。
折口信夫は関心を寄せました。


昔、野狐がすんでいたという
信太の森は現在は
大阪府和泉市王子町の
聖神社の境内になっていて
江戸時代まで聖神社には
陰陽師たちがいて
暦を作って売っていました。

そのとき、聖神社と縁のある
信太森葛葉稲荷神社に伝わる
信太妻のお話を説経節にして
伝えて巡っていたと言われています。

陰陽師の語る信太の森の物語には
異類婚、夢占い、験くらべ、
動物の言葉のわかる
聞き耳物語などの
民間説話を組み合わせ
説教節ができあがっていきました。

この説教節は
浄瑠璃に取り入れられたり
人形劇になったり
寛文2(1662)年には
「芦屋道満大内鑑
(あしやどうまんおおうちかがみ)」
という歌舞伎として初演されました。

折口信夫は「信太妻」の物語の中で
民間信仰の伝承から舞台芸術になるまでの
数百年間に多くの物語が作られていたことを
繰り返し述べています。

そのことを裏付けるかのような
若干違いのある2つのお話を
おまけとして載せてみたいと思います。
少し長くなりますので
あしからずご了承下さい。


*****************************************************

おまけ1

信太森葛葉稲荷神社バージョン

kuzuhainari.jpg
信太森葛葉稲荷神社

昔、大阪阿倍野の里に
安倍保名という若者がいました。
家の再興を念じて
この信太の森の稲荷へ
日参していました。

ある日、お参りを終えて
帰ろうとすると、
一匹の白狐が
走り寄って来ました。
狩人に追いつめられて
助けを求めてきたのです。

保名は、草むらにキツネを隠し
狩人達と争いになりました。
傷を意識を失った保名が気が付くと、
一人の美しい女性に介抱されていました。
名は葛の葉といいました。

数日後、保名の家へ
葛の葉が訪ねてきて
二人は心を通わせ夫婦となり、
男の子が生まれました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。

この子が五つとなった秋、
子供に添い寝していた葛の葉は
眠っているうち、神通力を失って
キツネの正体を現せてしまいました。
目覚めた子供はそれに気づく。

もうこれまでと葛の葉は口に
くわえた筆で歌を書き残して去りました。
その歌は、

「恋しくは たづねきてみよ 和泉なる
       信太の森の うらみくずの葉」

夫と子供に宛てたものです

母を慕って泣く子を背にした保名は
妻の名を呼びながら
信太の森に来てみると、以前は
見えなかった葛の葉っぱが
社面一面に群がり茂っていました。
そしてそれらの葛の葉が
夫と我が子の声に応えるように
葉をそよかせ泣くがごとく、
葉のうらを見せてざわめいていました。

その子は後、
いろんな天皇に仕えられた、
陰陽士”安倍晴明”です。


*****************************************************

おまけ2

聖神社バージョン

hijirijinja.jpg
聖神社

昔、摂津の国住吉の里に、
阿倍保名(やすな)という人があった。
妻は葛葉姫(くずはのひめ)
といったが身体が弱く、
たびたび里に帰って養生していた。

保名は日夜心を悩まし、
神の助けによって一日も早く
妻の全快と俊児を授けられんことを、
当時最も信仰者の多かった
信太明神(聖神杜)に祈願し、
三十七日間おこもりをし、
白玉を得、斉戒沐浴して
池の堤に立っていた。

すると水面に白狐がうつり、
不思議に思って後ろを見ると
一匹のねずみ(実は傷ついた白狐)が
走ってきたので、このねずみを
袖にかくまい、しばらくして
山中に逃がしてやった
(聖神杜境内には、この伝承に
由来するねずみ坂と鏡池
-現在は神杜の所有ではない-
が残っている)。

保名は満願の夜、
疲れて社殿でいねむりをしていると、
冠をかぶった白髪の老人が
夢にあらわれて、

「汝の日頃の信仰は
ほとんど寝食を忘れるほど
誠意であり、願いは必ず成就する。
妻の病気は全快し、俊児も近々賜るる、
すこと憂うることはない」

とお告げがあつた。

保名は神心肝に銘じ、
なおも深く祈願をこめて
家に帰ったが、翌日の夕方に
妻は元気な様子で帰ってきた。
保名は本当に信太大明神の
お告げどおりだと、
たいへん喜んで妻を迎えた。

それからというものは
楽しく日力を過ごし、
妻はまもなく懐妊し・
月満ちて男児が生まれた。

夫婦の喜びはひとしおで、
掌中の珠として愛育した。
百余日を経たある夜、
家中が光り輝き、
驚いて眺めていると、
妻は白狐神となって

「我こそは信太大明神と
議(はか)り仮に汝の妻となり
願いの如く俊児を授けたる。
今は神のおぼしめし
告げる時が来て
帰らねばならない。
大切に育てるべし」

と告げるやいなや
いずこかへ消え失せた。
保名はありがたさに
むせぶうちに夜が明け、
雨戸を開いて障子を見ると、
文字が書き付けてあった。

これが世に知られる

「恋しくば尋ね来てみよ
和泉なる信太の森の
うらみ葛の葉」
の和歌である。

その後、本当の妻も
病気が治り帰つて来て、
二人でその子を大切に育てた。
この子が非凡の天機を発揮し、
成長ののちには
陰陽博士として
天下にその名を知られた
安倍晴明であるという。


**********************************


お話は同じなのに
内容に若干の違いがあることが
お分かりいただけたかと思います。
昔話と言うのは
口伝なのでこうして少しずつ
変わっていくのでしょう。
おもしろいものですね。

長文にも関わらず
ここまで読んでくださって
どうもありがとうございました。

kuzuha.jpg
葛葉姫

参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
清明神社ホームページ
聖神社ホームページ
延喜式神社調査のホームページ

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説経節 その2 『信太妻』  [折口信夫]

その2は
『信太妻(しのだづま)』
というお話です。


村上天皇の時代(10世紀)に
摂津の国、安部野(今の大阪市)に住む
安部保名(あべのやすな)にはメス狐をかくまい
逃がしてやったという物語があります。

その帰り道に
一人の女性が川辺で水を汲もうとして
水中に落ちたところを保名が救い出します。

「葛の葉」という名の女性は
その縁で保名の妻になりました。
やがて生まれた男の子は
安部童子(あべどうじ)と呼ばれて育ちました。

安部童子が七歳になった日のこと
保名の留守中に葛の葉は庭に乱れ咲く
菊の花に見とれていました。

shinodaduma.jpg

あまりの美しさに我を忘れ
顔が狐になり本性の姿を
あらわしてしまいます。
しかもその姿を安部童子に
見られてしまうのです。

彼女は、以前川で助けられた
メス狐だったのです。

葛の葉は人間の世界に住むのは
これまでと思い、障子に

「恋しくば たづねきて見よ、
和泉なる 信太の森のうらみ 葛の葉」

と歌を書き、森の中へ消えていったのでした。

shinodaduma2.jpg

安部童子は帰ってきた父親と
信太の森へ母親を探しに行きました。
姿をあらわしたメス狐はわが子に
黄金の小箱を与えて
再び森の中へと入っていきました。

箱の中には水晶の玉が入っていました。
その玉を耳にあてると、鳥や獣の鳴き声が
人間の言葉になって聞こえてくるのです。

童子が10歳になった時、二羽の鳥が

「京の都で帝がご病気になられた
それは御殿の柱の下に蛇と蛙が
生き埋めにされて戦っているからだ。
その毒気が帝のご病気のもとだ。」

とさえずりあっていました。

安部の親子は京の都にのぼり
御所で帝のご病気の原因を申し上げました。
御所の木工頭(もくのかみ)がその柱の下を
彫ってみると、なんと蛇と蛙が出てきたのです。

帝はたちまちご病気が治り
安部童子はくらいをいただきました。

それからは京都で陰陽学を学び
安部清明と名乗り後に日本一の
陰陽博士になりました。

現在は京都市上京区堀川通りの
清明神社にまつられています。

折口信夫はなぜ、
安部清明がメス狐から
生まれたことになったのかということに
関心を持ちました。
気になるところですが
長くなってしまったので
続きは次回にさせていただきます。

20100907032012.jpg
信太妻のお話『葛の葉物語』の歌舞伎公演より


参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
wikipedia 「葛の葉」より
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説教節 その1 『愛護若』  [折口信夫]

仏教の経典の中の説話やお寺の縁起を物語にして
民衆に聞かせる説教節の語り手が中世の頃から
ちまたにあらわれてきた。

聖と呼ばれて旅する宗教者や山伏、盲僧、巫女の
熊野比丘尼(びくに)たちであった。

物語は神や仏が人の世に生まれ
苦難と悲しみの生涯を終えた後、
神仏の世界に転生する。

説教節の聞き手の民衆は
来世への転生を聞くことによって
自分たちの今のつらい暮らしに救済感を
持ったのである。

折口信夫はこの説教節の中に
わが国の文学の原型となる
「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」を見出した。
小説の源氏物語よりも
説教節や浄瑠璃の世界に
一層農耕に伝えられることを物語っている。


というわけで
今日から三回にわたり
折口が論考している説教節の
「愛護若(あいごのわか)」
「信太妻(しのだづま)の話」
「小栗判官(おぐりはんがん)」
という三つの説経節を
取り上げてみたいと思います。


今日は「愛護若」です。


「愛護若」

嵯峨天皇の時代(8,9世紀)を舞台とする物語です。
二条蔵人前左大臣清平の家には
「刃の太刀(やいばのたち)」と
「唐鞍(からくら)」という宝物が伝わっていました。

清平夫妻は子供に恵まれず
奈良の長谷(初瀬)観音に詣って
祈願し男の子が生まれたのです。

名前を「愛護若(あいごのわか)」といい、
父母の寵愛を受けて育ちましたが、
13歳の時母親がなくなってしまいます。

父の清平は後添えに妻を迎えました。
その継母が愛護若に恋文を送るようになりました。
愛護若が拒絶すると継母は彼を恨み
家宝の太刀や鞍を人に頼んで売らせ
清平には愛護若の仕業と伝えました。


清平は「前代未聞の曲者」と
わが子を桜の古木に吊り上げて縛った。
死んで冥途に行った実母がそれを知り
いたちに姿を変えてこの世に現れて
縄を食いきり、比叡山にいる神のお使いの
手白の猿とともに愛護若を助けました。

父のもとには戻れない
愛護若は、比叡山中に踏み迷い
木の根を枕にして苦難のたびを続けます。
粟津の庄までくると、田畑之介兄弟に出会いました。

二人は愛護若が公達(きんだち)の一人と知ると
兄弟は柏の葉に粟の飯を盛り上げてもてなしてくれました。
田畑之介と別れた後愛護若は
垣根になっている桃の実一つを
撮ろうとして、その家の老婆に杖で打たれてしまいます。
愛護若が麻の畑にかくれると老婆はそこまで追いかけてきました。

毎日、毎夜、このような苦しさと悲しみが続き
この世に絶望した愛護若は霧降(きりゅう)の滝へ実を投げて
十五歳の人生を終えたのです。

その知らせを聞いた比叡山延暦寺の大僧正は
後に愛護若を山王権現として日吉大社にまつったといわれています。

※公達(きんだち)・・・親王、諸王などの皇族の人々。


さて、ここで疑問が浮上します。
日枝神社のご祭神は愛護若なのかと、、、。


ちなみに日吉大社の御由緒は以下の通り。


御祭神

大己貴神 (・・・おおなむちのかみ。西本宮)

oonamuchi.jpg


大山咋神 (・・・おおやまくいのかみ。東本宮)

ooyamaiku.jpg


愛護若の字はどこにも見当たりません。
そして御由緒を見るとこのようになっています。


御由緒
当社には東西両本宮があり、
東本宮の御祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)は、
古事記神代の巻に
「大山咋神 亦名 山未之大主神 此神者生近淡海国之日枝山……」
と記されている。

日枝山頂から今の地に移し祀られたのは、
崇神天皇七年(紀元前91年)と禰宜口伝抄にある。

又 西本宮の御祭神 大己貴神は
「天智天皇七年(668年) 戊辰三月三日詔 鴨賀嶌八世孫宇志麿祭
大和国三輪坐 大己貴神 於比叡山口日大比比叡宮」
と禰宜口伝抄にある。

元慶四年、西本宮御祭神正一位(三代実録)。
寿永二年、東本宮御祭神正一位、二十二社注式。
長暦三年、二十二社に加えられ、
延喜式内名神大社でもある。

明治四年官幣大社列班。
昭和三年官幣大社祭神御増座、
謂ゆる東西両本宮が
官幣大社に列せられたのである。

行幸は創祀以来二十数回を数えるが、
中でも第五十代桓武天皇が
延暦十年四月第二ノ申日より七日間、
日吉大社に参籠ましまして行在所を設けられ、
勅願に依り大比叡、小比叡の
神輿二基の御造進が特記される。

神佛習合に関しては、
天台宗の守護神として
延暦寺と密接な関係を有し、
歴史的にも天台教学の上にも
現代に至るまで大きな影響を及ぼしている。

戦国の武将は並べて崇敬が篤く、
中でも秀吉、家康の山王信仰の篤さは
日吉三橋(重文)、
日吉東照宮(重文)に
文化遺産として残されている。

元亀の乱により社殿及び神輿は
烏有に帰したが、
天正十四年から逐次再建された。
全国にある三八〇〇余社の
分霊社の総本宮である。


例祭である山王祭には
古式祭がよく継承されていて
四月十二日山頂の牛尾神社、
三宮神社より東本宮拝殿に
神輿が舁ぎおろされる午の神事、
同十三日に斎行される献茶式、
未の御供、花渡式、宵宮落等未の神事、
十四日神幸祭で神輿が唐崎に湖上渡御し、
粟津の御供の神事が
斎行される等特に有名である。(県選択)(市指定)。

また元旦暁闇に斎行される大戸開神事には
京都の片山能太夫による「日吉の翁」が奉舞される。



小難しいので
かいつまんでご説明しますと
日吉大社は紀元前91年の創建より
天皇家と武家からの崇敬が厚く
また最澄が天台宗を開宗し
比叡山に延暦寺を建立してからは
仏教とのゆかりも深くなった
神仏習合的歴史をもつ神社ということです。

さらに日吉大社の
公式ホームページによると
こんな話が出てきます。

最澄上人は延暦25(806)年に
比叡山にて天台宗を開宗。
その際に天台山国清寺にて
お祀りされていた山王元弼真君
(さんのうげんひつしんくん)になぞらえて、
比叡山の神である日吉大神を
天台宗の守護神として崇めました。
以後、日吉大神は山王権現とも称され、
天台一門をお守りする神として、
今日まで深い関係を築いています。

思うに、この山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)が
聖の間で愛護若に変わって行ったのではないのかな、
と推測したのですが・・・
折口信夫の論文によると
愛護若が身を投げた滝がはっきりしていますし
愛護若を救った手白の神猿が絵馬にその姿をとどめていたり。
また粟津庄で田畑之介兄弟からご馳走になった粟飯は
七世紀ごろ天武天皇が小船の上で地元の漁師から
献じられたものであるとの伝承もあります。

今でも山王祭で琵琶湖上で小舟が
七台の神輿に粟飯のお供えを献じる儀式が行われていたり
このあたりの関係性を折口先生がご存命だったら
是非聞いてみたいところなのですが。。。

滋賀の近松寺(ごんしょうじ)を中心に
説教師が集まっていたそうなので
そのお寺にいけば謎を解く
カギが見つかるかもしれません。
物語に出てくる長谷寺に行ってみるのも
いいかもしれません。

どなたかそれ知ってるよ
という方がいらっしゃいましたら
ツイッターまでお願いします。

http://twitter.com/abcola

今回は思いがけず
話がひろがり長くなってしまいましたので
このへんでお開きにしたいと思います。

最後までよんでくださり
どうもありがとうございました。

参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
日枝神社ホームページ
滋賀県神社庁ホームページ

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折口信夫と源氏物語 その4 [折口信夫]

光源氏は須磨でのわび住まいが一年ほどたった
三月の激しい雨の夜中、亡くなった父上の桐壺帝が
夢に現れお立ちになり、

「住吉明神のお導きにより、早舟を仕立ててこの浦を出よ」

とおっしゃって消え去った。


夜が明けると
須磨の浜辺に小舟が漕ぎよせてきた。
それには前播磨守の明石入道が乗っていて

「住吉明神の夢のお告げで、お迎えにあがりました」

と述べる。
源氏は先帝の夢の住吉明神のお告げを思い
お供のものと明かし入道の舟に乗った。

明石の浜につくと明石入道は
源氏の御座所(おましどころ)を用意していた。

genji suma.jpg
用意された御座所

ある日、明石入道は

「自分は田舎者だが父は都で大臣までなった。
娘を高貴なかたに嫁がせたい」

と心中を語った。
その娘は源氏の出した
手紙の返歌もすぐれていた。
娘はやがて源氏と琴を合奏するようになった。

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源氏と琴を合奏する明石の君の娘

年が改まって宮廷では逆境に沈んでいる源氏を
赦免して都に呼び戻そうという動きになり
ついに源氏召還の宣旨が下った。
明石での別れの宴に源氏は琴を一曲ひき

「一節だけでも、せめて」

と娘の琴を望んだ。
そのとき源氏は娘がすでに
懐妊していることを知っていたのである。

二年数ヶ月ぶりに京都に帰還した源氏は
宮廷生活にもどり、28歳で権大納言に昇進する。


源氏は最愛の紫の上の諒解をとりつけて
今は一女の母になっている明石の君を都へ招き
郊外の大堰に住むむことになった。
その後、明石の君の娘は紫の上に引きとられて
立派な家柄の姫として育てられる。


「梅枝(うめがえ)」の巻では
源氏39歳、明石の姫君は11歳で
13歳の皇太子のもとに入内することになった。
十数年前明石入道が源氏に語った
一台野望がかなえられたのだ。

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梅枝の場面

一方源氏は「藤裏葉(ふじのうらば)」の巻では
準太上天皇という、臣下では最高の待遇を
受けることになったと記され
光源氏は栄華を極める。
ここに「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」が
めでたし、めでたしの結末となる。

fuchinouraha.jpg
藤裏葉の場面


さて、源氏が宮廷に戻ってから
わすれられてしまった
あの鼻先の紅い「末摘花(すえつむはな)」・・・。
「蓬生(よもぎう)」の巻によると
十年も前に源氏のつげた一言を信じて
荒れ果てた旧邸のなかで源氏が再び
訪れてくるのを待ち続けていた、、、。

suetsumu.jpg
蓬生の場面

末摘花の心根に感動した彼は
自分を悔い、彼女を二条東院に引きとり
静かに安らかに暮らさせた。



源氏は須磨、明石の
「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」の生活から
苦しみに耐えて生き、人間として
向上していく過程を学び
一人の女性も不幸にしない
「いろごのみ」の徳をわきまえるようになっていた。
折口は『反省の文学源氏物語』の中に
そのことを書いている。


参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行



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折口信夫と源氏物語 その3 [折口信夫]

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)

光源氏が数え年25歳のときのことである。
右大臣の娘朧月夜の君は、桐壺帝の第一皇子
つまり光源氏の兄の朱雀院との結婚の予定があった。
ところが光源氏は朧月夜にもいつもの
いつくしみの度が過ぎて、彼女と几帳の中にいるところを
父の右大臣にのぞきこまれてしまった。

右大臣の娘で朧月夜の姉である
広徴伝はびっくり仰天
これにより光源氏は流謫(るたく)の身になった。

sumahe.jpg
源氏の須磨での生活

源氏物語には人それぞれの読み方があって
「須磨返り」という言葉がある。
全巻は読み通せなくても
「須磨」「明石」まで読めたら
さよならをすることを言う。


その「須磨」が源氏物語最高の名文と言われている。

「須磨には、いと心づくしの秋風に
海は少しとおけれど、行平の中納言の
間吹き越ゆると言ひけむ浦波
夜々はげにいと近く聞こえて
またなくあはれなるものは
かかる所の秋なりけり。
御前にいと人少なにて・・・・・・・」

と続く。

suma umi.jpg
須磨の浦波
秋になると源氏が予後とに聞いたであろう
須磨の波の音、折口は「須磨」に
光源氏の「貴種流離譚」を見出した。
(兵庫県神戸市須磨区)



この名文を折口も
「小説戯曲文学における物語要素」
の中に取りあげている。


折口は源氏物語の中の
「須磨」から次の「明石」の巻が
「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」に
符合することを述べている。


「貴種流離譚」とは折口が日本の神話や
古代文学の中から発見した物語に名付けた
文学の形式である。


それは天上界で罪を犯した幼い神が
人間界に流れ込み、辛苦を味わった後
死に至り、神の世界に転生する神話を
原型としている。

その変化として、人間界の高貴な身分に生まれた
皇子や姫君が罪を犯して都を離れ
地方をさすらい、辛苦の果てに人生を終えるもの
または幸福によみがえる者の物語である。


折口は源氏物語の主人公源氏の君が須磨
明石の辺境をさすらっての後、
宮廷にもどる生活を
「貴種流離譚」と指摘している。


その「貴種流離譚」にあたると思われる部分の訳語を
ここにご紹介させていただきます。

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三月の上旬にめぐって来た巳の日に、

「今日は、このようにご心労のある方は、
御禊をなさるのがようございます」

と、知ったかぶりの人が申し上げるので、
海辺も見たくてお出かけになる。
ひどく簡略に、軟障(ぜじょう・・・垂れ幕のこと)
だけを引きめぐらして、
この国に行き来していた陰陽師を召して、
祓いをおさせになる。

舟に仰々しい人形を乗せて
流すのを御覧になるにつけても、
わが身になぞらえられて、

「見も知らなかった大海原に流れきて
  人形に一方ならず悲しく思われることよ」

と詠んで、じっとしていらっしゃるご様子、
このような広く明るい所に出て、
何とも言いようのないほど素晴らしくお見えになる。


海の表面もうららかに凪わたって、
際限も分からないので、
過去のこと将来のことが
次々と胸に浮かんできて、
 
「八百万の神々もわたしを哀れんでくださるでしょう
  これといって犯した罪はないのだから」

とお詠みになると、急に風が吹き出して、
空もまっ暗闇になった。
お祓いもし終えないで、騒然となった。
肱笠雨(ひじかさあめ・・・にわか雨)とかいうものが降ってきて、
ひどくあわただしいので、皆がお帰りになろうとするが
笠も手に取ることができない。

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突然の嵐

こうなろうとは思いもしなかったが、
いろいろと吹き飛ばし、またとない大風である。
波がひどく荒々しく立ってきて、
人々の足も空に浮いた感じである。

海の表面は、衾を広げたように
一面にきらきら光って、雷が鳴りひらめく。
落ちてきそうな気がして、やっとのことで、
家にたどり着いて、

 「このような目には遭ったこともないな」

 「風などは、吹くが、前触れがあって吹くものだ。思いもせぬ珍しいことだ」

 と困惑しているが、依然として止まず鳴りひらめいて、
雨脚の当たる所、地面を突き通してしまいそうに、
音を立てて落ちてくる。

「こうして世界は滅びてしまうのだろうか」

と、心細く思いうろたえているが、
君は、落ち着いて経を誦していらっしゃる。
日が暮れたので、雷は少し鳴り止んだが、風は、夜も吹く。

「たくさん立てた願の力なのでしょう」

「もうしばらくこのままだったら、
波に呑みこまれて海に入ってしまうところだった」

「高潮というものに、何を取る余裕もなく
人の命がそこなわれるとは聞いているが、
まこと、このようなことは、まだ見たこともない」

と言い合っていた。


明け方、みな寝んでいた。
君もわずかに寝入りなさると、
誰ともわからない者が来て、

「どうして、宮からお召しがあるのに参らないのか」

と言って、手探りで捜してしるように見ると、目が覚めて

「さては海龍王が、美しいものがひどく好きなもので、魅入ったのであったな」

とお思いになると、とても気味が悪く、ここの住まいが耐えられなくお思いになった。

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須磨の関跡 
平安時代の摂津と播磨の国境に
設けられた関所跡で
今は関守稲荷神社がある。
「須磨」に「関吹き越ゆると言ひけむ浦波」
と出てくる。(兵庫県神戸市須磨区)


参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/

折口信夫と源氏物語 その2 [折口信夫]

著者 紫式部
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千年間もよみ続けられてきた源氏物語の著者は
「紫式部」という女房名であったが、その本名はわかっていない。
生没年も推定では天延元(973)年頃生まれ
寛仁3(1019)年の正月までは存命していたという。
没年はわからないが北区紫野雲林院町に墓がある。

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紫式部の墓


住んでいた家は京都御所東側の中川とよばれるあたりで
現在の廬山寺(ろざんじ)の境内が邸宅あととして
昭和40(1965)年に顕彰碑が建った。

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紫式部の顕彰碑



紫式部はこの邸宅で生まれ、結婚生活を送り
一人娘を育て、源氏物語を執筆したのだろう。

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廬山寺の源氏庭


源氏物語の主人公は
桐壺帝の第二皇子で母は桐壺更衣である。
主人公が三歳の時母を亡くした。
8,9歳の頃、桐壺帝の配慮により
臣籍に降下し、「源氏」という最高の姓を賜った。

第二皇子が「光源氏」となったのである。
「光る」とは光り輝くという同士で
従って「光源氏は『美しい、臣籍降下の王子様』
と言うくらいの意味をはっきり受け取っていた」と
折口は記している。



滋賀県大津市の石山寺に行くと
本堂の脇に「紫式部源氏の間」というのがある。

中宮彰子から物語を新作せよと命ぜられ
紫式部はこの部屋にこもって
明月の夜に源氏物語の発想を得たという。
あるいは「須磨・明石」の二帖を
書きだしたともいわれている。

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紫式部源氏の間
石山寺本堂脇の小部屋にこもって
紫式部は寛弘元(1004)年源氏物語を書き出したと
『河海抄』は伝えている。


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石山寺の紫式部の像(滋賀県大津市)


源氏物語に造詣深い秋山虔は
『折口源氏の視座』の中で
「折口氏の眼と心は源氏物語を古代の側から見、感じている
もはや現代人にとって、追体験の不可能な古代生活のなかに
視座を設ける折口氏は、古代文学として源氏物語を見すえる。
とともに、現代の文学眼にも呼応するほどに古代を超克する
その達成をも難なく見透かす」と卓見をのべている。
(『折口信夫全集ノート編第15ノ11月報、昭和46年』)



参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
廬山寺ホームページ
http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/

折口信夫と源氏物語 その1 [折口信夫]

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に
いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれたまふありけり」(桐壺)

源氏物語54帖の書き始めは
文字と文字がふれあえば玉とひびきあふほどの美しさ。


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禊をする斎王代
斎王とは平安朝時代未婚の内親王が選ばれて奉仕した。
現在は、代理として京都在住の一般市民から選ばれた女性が務める。
下鴨神社では、十二単を着て境内の御手洗(みたらし)池で
水に手を浸して身を清める御禊(みそぎ)を行う。


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葵祭の斎王代
下鴨神社で御禊(ごけい)の儀式を終えられた
斎王代、おすべらかしの神に金色の櫛をさし、十二単衣に
小忌衣(おみごろも)をはおる。両脇には童女(わらわめ)が仕え
背後女官たちが居並び、王朝風俗を再現する。京都市左京区



折口信夫は大正13年(1924)年から没する前年の
昭和27(1952)年まで國學院大學と慶應義塾大学で
源氏物語を開講し、30年間に及んだ。


折口はその講義の中で
古代から平安時代に伝承されている
宮廷での生活と信仰をくりかえしのべている。

国の王たる者は、自国を栄えしめたるためには
他国の神々の力も自国に併せ持つことによってなされる。
それには様々な国の最高の巫女を妻として迎え入れることだ。
それぞれの国力と祖霊を背負って宮廷に入ってきた
神の嫁たる巫女と取りあわせよく幸福にし
円満な共同生活で宮廷という広い家庭を構えて
多くの子孫を持ち続けることが
国の繁栄になるという考えの時代であった。

折口は神話では大国主命、歴史上の人物では
仁徳天皇を例に挙げて、「いろごのみ」という
大和の王の持つべき心配りを述べている。
江戸文学の中の「好色」とは全く異なった
道徳であることをくりかえし伝えている。

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車争い
葵祭りの行列には挿頭(かざし)の葵をつけた牛車が出てくる。
「源氏物語」の「葵の巻」には、
斎王列見物にでかけた葵の上と
六条御息所の車争いがある。
いまをときめく光源氏の正妻、葵の上と、
源氏の愛がさめた御息所の衝突。
御息所の車は見物の列からハジキ飛ばされる。
気のすまない御息所のうらみは生霊となって、
やがて葵の上にとりつくというお話。

葵祭りの季節になったら
葵祭りにスポットを当ててみたいと思います。
日本を代表するお祭りですからね。

参考
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/aoi.html
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/

「そねったん」と「いち」 [折口信夫]

20100730001337.jpg中世からあった惣村でかかえている巫女を
村人は今も親しんで「そねったん」と呼んでいる。

惣村・・・室町時代、荘園解体期に現れた村人の共同体的結合。

写真は宝暦年間(1751-64)以来、娘、孫、嫁によって
巫女の家計をつないできた奈良県三郷町のそねったん。

そねったんのもとの言葉は「惣のいち」であったろう。
「いち」とは巫女のことだ。
奈良県、京都府の農村に住み宮座の村祭りに巡ってくる。
神社の拝殿での神事では神官の隣か対座して着席している。
そんなところに折口のいう古代の「神の嫁」の風格が伺える。


そねったんは祭りの場で湯たてを行い
鈴の舞剣の舞をして祭場に集まった人々の祓えをする。

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(左)剣の舞・・・秋祭りに剣で祓えの舞を行う。 奈良県川西町糸井神社
(右)湯立ての舞・・・そねったんの大切な行事は湯立てである。
祭りを始めるにあたって釜に湯をわかしその湯気で祭場をきよめる。


「いち」と呼ばれる巫女は近畿地方から九州にかけて広くいる。
折口は大正10年夏、沖縄の帰路、壱岐島に寄った。
そこでは巫女のことを「いちじょう」という。
「弓をたたいて神寄せをしてから百合若を語る」と
壱岐島に伝わる説教節をいちじょうから聞いている。

百合若(ゆりわか)・・・百合若大臣。剛勇の百合若大臣は
蒙古軍を攻め降ろした帰途、無人の玄海島に置き去られるが
国より鷹の使いを得、帰国して悪臣を滅ぼす話。

説教節(せっきょうぶし)・・・中世末から近世に行われた語り物。
仏教の説経から発し、ササラや鉦などを伴奏に物語る。
大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)、
歌説経などの形態もあった。江戸期に入り、
胡弓・三味線をも取り入れ、操り人形芝居と提携して興行化。
全盛期は万治・寛文頃。祭文と説経が結びついた
説経祭文の末流が現在に伝わる。説経浄瑠璃。説経。

参考文献
『折口信夫と古代を旅ゆく』
芳賀日出男著・慶應義塾大学出版会
2009年11月20日発行

『広辞苑』第六版

蛇足
このように神楽を奉仕する巫女は
民俗学の分類によると神和ぎの巫女とされている。
古来日本ではまだ女子神職の制度が確立されていなかった
中世以後の各地の神社で、
巫女による御神楽奉納が恒例となっていたようだ。

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